科学思想史(167頁-169頁)

2009/04/14 Tue 科学思想史

ヒグチ(p.167-p.169)

 私たちは──手短に、そして一般的に表現するため──時間の観念に到達している。それは、私たちの記憶の領域に含まれているものが持つ、感覚知覚の領域に含まれているものとのつながりによって、である。私たちが、時間はある一定の方向、またはある一定の感覚で流れてゆくのだというとき、私たちは物理的出来事一般(したがってまた生理学的出来事も)はただある一定の感覚において生ずるということを意味している。温度の差異、電気的な差異、程度の差一般は、もしそれらをそのままにしておけば、すべて小さくなり、大きくはならない。もし私たちが異なる温度の二つの物体をよく観察し、接するように置き、完全に放っておくならば、私たちは、記憶の領域にある温度のより大きな差異に対してのみ、感覚知覚の領域にある差異の小さい方とともに存在し、その逆ではないということに気づくだろう(?)。このすべての中に、かんたんにいって、諸物体の特異で深いつながりがあるのだ。現在においてこの問題についての満足な説明を要求することは、思弁哲学のやり方で、すべての未来の特別な探究の結論を、すなわち完璧な物理科学の結論を予想することである。

 温度に関する現象の研究の中で私たちは温度をはかる私たちの尺度として任意に選んだ分量の指針を用いる。その指針は、熱さに対する私たちの感覚とのほとんど並行する対応の中で変化し、そして、それは私たちの感覚器官の制御しえない妨害によって乱されにくいものである。したがって、おなじような理由から、私たちは私たちの時間の感覚とほとんど並行関係の中で進むような、任意に選ばれた運動(地球の自転のようす、または自由な物体の軌道)を私たちの時間の尺度とする。もし私たちが、自分たちはただ現象の相互の依存性を究明することにのみ関心をそそぐということを一旦はっきりさせれば、すべての形而上学的曖昧さは消えるのである。

 私はまた、人間にとって大きな価値がある諸概念、特に人がそれらの発展についての知識なしに、本能的にそれに達するような諸概念を実体化しようとする人間の自然の傾向に対する理由を指摘しようと試みた(「熱の諸原理」、ドイツ語版、51頁)。私がそこで温度の概念に対して提出した諸考察は容易に時間の概念に適用されるものであり、ニュートンの「絶対」時間の概念が持つ起源を理解しやすくするものである。そこではまたエネルギーの概念と時間の不可逆性のあいだになりたっているつながりについても言及しており(338頁)、その見解は、宇宙のエントロピーは、もしそれができる限り決定できるなら、実際に時間の絶対的尺度に類するものを表現するだろうというところまで前進した。

 3.これら時間に関連したものと類似した見解は、空間と運動を考慮してニュートンによって発展させられている。私たちは彼の立場を性格づけるいくつかの部分をここで抜き出そう。

 「U.絶対空間は、その固有の自然の中で、かつ外的ななにものにも関係せず、常に同種のものであり不動である。」

 「相対空間は絶対空間の、ある程度可動的な寸法であり、または尺度である。相対空間は、私たちの感覚がその位置を他の諸物体を顧慮して決定し、一般的には不動の(絶対的な)空間として受け取られている。」

 「W.絶対運動は、ある物体が一方の絶対空間から他方の絶対空間へ移動することの言い換えである。そして相対運動はある相対空間から他方の相対空間へのそれである‥‥‥。」

 「‥‥‥こうして、私たちは日常的な出来事においては絶対空間と絶対運動のかわりに相対的なそれらを用いている。そしてそれで何の不都合もないのである。しかし、物理的な議論においては、私たちは感覚を抽象して取り除くべきである。というのも、他のものの空間と運動がそれについて言及されうるような、完全に静止した物体など一つも存在しないかもしれないのだから。」

 「それによって絶対運動と相対運動がお互いに区別されるような効果は遠心力、または軸から離れようとする傾向性を生じるような円運動における諸力である。というのも、純粋に相対的な円運動においてそのような力は存在しないが、真実で絶対的な円運動においてはそういう力は存在し、そして、そういう力は絶対運動の量に応じて強かったり弱かったりするからである。」

 「例を挙げよう。もし、長いひもで吊るされたバケツがしばしば向きを変えて回され、その結果ひもが強くねじれ、そうしたあとバケツが水で満たされて水といっしょに静止させられたとする。そしてそのあとで第二の作用によってバケツは突然逆方向にぐるぐるまわるようにされ、そして、ひものねじれがなってゆく一方で、バケツはまわりつづける。というのも、そのうちこの運動においてはこの水の表面は最初、容器が動き始める前と同様に水平になるからである。しかし、その次に、容器はその運動を水に対してじょじょに伝えるようになり、それとわかるほどに水を回転させるようになる。そして、水は少しずつ中心から引いてゆき、容器の端っこにのぼるようになるだろう。そのとき、水の表面は凹の形を呈する。(この実験は私自身が行ったものである)」

 「‥‥‥最初、すなわち容器の中での水の相対運動が最大だったとき、その運動は軸から後退する傾向を一切生み出さなかった。水は、容器の端にのぼることによって周辺へと向う運動をまったくせず、水平に保たれていた。そしてそういう理由によって、水の真の円運動はまだはじまっていなかったのである。しかしそのあと、水の相対運動が弱まったとき、容器の端っこでの水の上昇は軸から後退しようとする努力示した。そしてこの努力は水の真の動きを明らかにし、どんどん増加していき、水の上昇が最高点に達するまで、すなわち相対的に水が容器の中で静止するまで続いた。」

科学思想史(165頁-167頁)

2009/04/13 Mon 科学思想史

時間、空間、運動についてのニュートンの見解

エルンスト・マッハ



イトー(p.165-p.167)

 1.ニュートンが彼の諸定義のすぐあとに付している注の中で、彼は時間と空間についての、私たちがより詳細に吟味せざるをえないような見解を示している。私たちは、この目的のため、ニュートンの見解を性格づけるのに絶対に必要な諸部分だけを、逐語的に引用してみよう。

 「これまで、私の目的(object)は、あるほとんど知られていない言葉が結局は使われねばならないような、そういったさまざまな感覚を説明することだった。時間、空間、場所、そして運動はだれにでもよく知られた言葉なので、私は定義をしない。それでも、一般の人々がこれらさまざまな量をただ知覚できる客観との関係においてのみ受け取っているのだということは述べておくべきだろう。したがって、それらさまざまな量に関連したある種の偏見が生じる。これら偏見を除去するためには、それらの量を絶対と相対、真実と見かけ、数学的と一般的なそれらに、それぞれ区別すると都合がよいであろう。」

 「T.絶対的で真実で数学的な時間は、それ自身で、そしてその固有の本性によって、外部のものにはおかまいなく一様に流れてゆく。それはまた持続(duration)と呼ばれる。」

 「相対的で見かけ上の、そして一般的な時間は、絶対時間(持続)をはかる、ある感覚可能な外部の尺度であり、正確であるかむらがあるかはともかくとして、諸物体の運動によっておおよそはかられる。そしてこの時間は一般的に真実の時間の代わりに必要とされる。たとえば一時間、一日、一ヶ月、一年、などなど。」

 「一般的に時間の計測のために等しいものとして受け取れられている自然の日々は、実際には等しくない。天文学者たちは、より真なる時間によって天体の運動をはかるために、この不均衡を訂正する。時間を正確にはかれるような変化の運動など、一つも存在しないのかもしれない。すべての運動は加速されたり遅らされたりすることがある。しかし絶対時間の流れは変えることができない。持続、またはさまざまな物体の永続的な存在は、運動が速かろうが遅かろうがゼロであろうが、常に同じである。」

 2.ここに引用した所見の中で、ニュートンはまだ中世哲学の影響の下におり、彼は実際に存在する事実だけを研究すべきだという彼の決意に疑いを抱くようになっていったように見えるかもしれない。私たちが、物体Aは時間とともに変化するというとき、私たちは単純に、物体Aを決定する諸条件が他の物体Bを決定する諸条件に依存しているということだけを意味している。振り子の振動は、その往復運動が地球の位置に依存しているとき、時間の中で起こる。ところが、振り子を観察する中で、私たちはそれが地球の位置に依存することを考慮に入れる必要はない。だが、他のあらゆる物体(これの諸条件もまた、もちろん地球の位置に依存している)をそれと比較するであろうから、私たちがそれと比較するすべての物質は本質的でないという錯覚を起こさせる観念が容易に生ずる。いやむしろ、私たちは振り子の運動に付け加えて、他の外的物体すべてを無視し、あらゆる振り子の位置にとって私たちの思考と知覚は異なっているということを発見するかもしれない。したがって、時間は、ある個別的で独立なものであり、それの進展に振り子が依存しているように見える。その一方、私たちが比較のためにそれに訴え、無作為に選ぶ諸物体はまったく副次的な役割を演じているように見える。しかし、私たちは、世界中のすべての物体が他のものと繋がっており、依存しているということ、そして私たち自身と私たちの思考すべてがまた自然の一部であるということを忘れてはならない。時間によってさまざまな物体の変化をはかるということは、まったく私たちの力を超えているのである。それとは対照的に、時間は、私たちが物体の変化を手段として達するような抽象物であり、すべては相互に繋がっているため、私たちはどんな一つの一定の尺度にも限定されていないため、つくられたものである。運動は一義的に術語付けされており、運動においては空間の等しい増大は、地球の自転のような、私たちがそれと比較をするなんらかの運動によって記述される空間の等しい増大に応じて記述されている。他の運動との関連でいうと、ある運動は一定かもしれない。しかし、運動はそれ自体で一定であるかどうかという問いは無意味である。また、ちょうど同じくらい、私たちが「絶対時間」──変化から独立した時間について語るのも無意味であろう。この絶対時間はどんな運動との比較によってもはかれない。それはしたがって実践的にも科学的にも価値がない。そして、その絶対時間について知らないということによっては誰も正当化されない。絶対時間は価値のない形而上学的概念なのである。

 心理学、歴史、そして(名詞の年代的区分による)言語についての科学の観点から、私たちが時間に関するさまざまな観念に、他のものへの諸事物の相互依存の中で、あるいはそれを通じて到達するということを示すのは難しくはないだろう。これらの観念の中に、もっとも深く普遍的な諸事物のつながりが表現されている。このことは機械的な運動が逆にされうるという事実によっては棄却されない。数多くの可変的な量は関係しているかもしれないので、ある一群のものはそれに影響されていない他のもの抜きにして変化を被ることがある。自然は機械のように振る舞う。個々の部分は相互に他の部分を決定する。しかし、機械では一部分の位置が他のすべての部分の位置を決定している一方、自然ではより複雑な関係が成り立っている。これらの関係は、ある数 n 、すなわちより小さい数 n' を満足するさまざまな量、すなわち方程式の概念の下に、もっともよく表現されている。もし n=n' なら、自然は変化しない。もし n'=n-1 なら、一つの量によって、残りすべてが支配される。もしこのあとの関係が自然の中で成り立つなら、時間は、このことが一つ残らずあらゆる運動とともに成し遂げられた暁に、逆戻りしうるのだ。しかし、事物のほんとうの状態は n と n' のあいだの異なる関係によって表わされる。問題の量は他のものによって部分的に決定されている。しかし、それらは最後の引用した場合よりもより非決定性を、あるいは自由を、持っている。私たち自身、自分たちはそのような部分的には自然の決定的な要素であり、また部分的には非決定的な要素であると感じている。自然のさまざまな変化のほんの一部が私たちに依存し、私たちによって逆戻りさせられる限りでも、時間は変化させられないように見え、過ぎ去った時間は消えてしまい取り返しがつかない。

社会哲学(1段落-4段落)

2009/04/12 Sun 社会哲学

実践理性 カントにおける行動理論と道徳の基礎づけ


   T.カントの行動理論の諸前提

  第1章 超越論的観念論



1

カントの行動理論の立場は、形而上学的伝統が孕むさまざまな問題とのカントの「批判的」対決の中に埋め込まれている。その立場はカントの「超越論的観念論」という理論に基づいている。その中心的なテーゼは、「現実」に対する私たちの把握が、確かに主観的ではあるが普遍的に妥当するような、経験的認識の「可能性に対するさまざまな制約」と関連がある、というものである。ここから、私たちに「現象」しその性質を認識しうる諸事物と、「それ自体で観察される」ような諸事物との区別が生じる。さて、このようなカントの「基礎理論」がもつ確かな形態については解釈者たちに一致が成立していないので、まずごく手短に、どのような理解がカントの行為理論に関するこれからの記述の基礎を成しているのかが述べられることになろう。

 A.物自体とその現象

2

カントによる「物自体」と「現象」との区別は一つの考察の上になりたっており、これに対しては、カント自身がよく強調しているように、精緻な熟慮が必要とされるわけではない。それでも、見たところその理解をやさしくしなかった一つの状況が必要とされる。それは、次のような観察である。すなわち、私たちの(感覚による恣意のような)恣意ぬきに私たちに生じるすべての表象は、私たちにさまざまな対象を次の限りで認識させる。というのは、対象が私たちを触発し、その際には対象がそれ自体であるところのものは、私たちには知られないままになっているという限りにおいて(『道徳形而上学の基礎づけ』、451頁)。それに対応して、カントは可能な客観について二つの側面を、または意味を、人が客観をどう「観察」し、「見る」かによって区別する。人は、「まったく同じ対象」(『純理』B,XXVI u.ö.)を「経験の対象」として見る、したがって対象の諸性質を人間の主観にとって知覚可能である限りにおいて見るか、または逆に、対象が感覚的な知覚から独立にそれ自体として観察されるように見ることができる。

3

この区別は──これはまた、以下においては「超越論的差異」という──人間の特殊な知覚に関する状況から生じる。すなわち、現実を認識しうるためには、私たちは、はじめ互いに独立な二つの構成要素を、一つの「判断」へと結合しなければならない。この二つの構成要素とは、直観と概念である。直観は、私たちの感覚を通じて伝えられる経験の「材料」であり、この直観は、主観の感覚的受容性へ客観がおよぼす作用に起因する。経験的な「認識」は、しかし、直観を通じて「与えられた」客観が概念的に規定することでようやく生じるのである。ところが直観は、それらが私たちの感覚に作用する限りでのみ私たちに事物を提供するので、私たちは、事物が「それ自体で観察」されるように認識することはできず、かわりに、事物が私たちに「現象する」ように認識できるだけなのである。

4

それでもなお、このやり方での私たちの認識は「ただの仮象」になってしまうわけではない。というのも、事物のもつさまざまな主観の感覚への影響はそのように異なっているが、直観の「形式」はすべての人間において同一のもの、すなわち時間と空間だからである。これらを、すべての人間はアプリオリな概念についてのカテゴリーの中にもっており、カテゴリーの直観への適用は、時間空間的に「与えられたもの」が特定の法則に適った関係の中にあるということを前提している。だから、すべての認識主観がその「経験を判断する」ときにその主観のあいだで到達可能で時間空間的な現実と関係があるということが確証されねばならない。

倫理学(44段落-51段落)

2009/04/11 Sat 倫理学

V.近代の解決


44

政治哲学の問題の古典的な解決について語ることは可能だった。それは、根本的で、同時に一定の同意がすべての古典的政治哲学者たちにあったからだ。すなわち、政治的生活のゴールは徳であり、徳へともっともよく導く秩序は優越者支配の共和国、あるいは他の混ざったものなのである。しかし近代においては、私たちは根本的に異なった非常に多種の政治哲学を見る。それにもかかわらず、すべての近代の政治哲学は一致している。というのは、それらが共通の根本的原則を持っているからである。この原則は、次のようにもっとも適切に述べることができる。すなわち、古典的な体系を非現実的だとして退けること、である。近代の政治哲学に生命を与えている積極的な原則は非常に多様な根本的変化を経験してきた。この事実、そしてその理由は、私たちがここまで通ってきたよりもいくぶん物語的なやり方へと前進すれば、もっともよく示せるだろう。

45

近代政治哲学の創設者はマキャベリである。彼は政治哲学の全伝統を捨てることに影響を与えようとし、まさに影響を与えた。彼は自分の業績をコロンブスのような人々のそれと比較した。彼の主張はよく基礎づけられており、その政治的な教えは「まったく新しい」。唯一の問題はこの新大陸が人間が住むのに適しているかどうかということである。


46

マキャベリの『フィレンツェ史』の中で、彼はこんな話をしている。コジモ・デ・メディチはかつて、人々がその手中に祈りの言葉を持ちつつ権力を維持することはできないのだと語った。このことはコジモの敵対者たちに、彼を祖国より自分自身を愛する男、あの世よりこの世を愛する男として中傷する好機を与えた。そうして、コジモはいくぶん不道徳で反宗教的だと言われたのである。マキャベリ自身も同じ責めを受ける可能性がある。彼の作品は宗教への批判、そして道徳への批判の上に築かれているのだ。

47

彼の宗教批判、主に聖書による宗教についての批判、これはまた異端についての批判でもあるのだが、独自のものではない。それは結果的に、アウェロエス主義の名で行われ、3人のぺてん師という観念を生じさせた中世の学派と同様、異端の哲学者たちの教えを述べ直したものになっている。この領域におけるマキャベリの独自性は、彼が冒涜の偉大な精通者であったという事実に限定される。しかしながら、彼のさまざまな冒涜が持つ魅力とすばらしさは、私たちにとってはその衝撃的な性格よりも弱く感じられるだろう。それゆえ私たちは、マキャベリがそれらの魅力とすばらしさを覆い隠していたベールに、それらを隠したままにしておこう。私は彼の古典的政治哲学への批判と一致するその道徳性への批判へと急ぐことにする。主なポイントは次のように述べることができる。ユートピアに終始する、すなわちその現実化がありそうもないような最良の体制を記述することに終始する政治への取り組み方には根本的な誤りが存在する。だから、私たちは徳によって進むべき道を決めるのをやめ、社会が選ぶであろう最高の目的によって私たちの取る態度を強いることにしよう。私たちは、すべての社会が実際に追求している目的によって私たちの態度を決めることにしよう。マキャベリは意識的に社会的な活動の基準を下げているのである。彼による基準の引き下げは、その下げられた基準に対応して構築されるしくみの現実化を、より高い可能性へと導くように意図されている。こうして、偶然への依存は減らされる。すなわち、偶然は克服されるのである。

48

伝統的な取り組み方は次のような想定に基づいていた。すなわち、道徳性が実体的ななにものかである、すなわち、それは人間の魂の内における力である、ところが、道徳性は特に国家や王国の出来事においては効果のないものであるかもしれない、という想定である。この想定に対し、マキャベリは次のように論ずる。徳はただ社会の中でのみ実践されえ、人は法、習慣、そしてまた力によって徳へと習慣づけられねばならない。人は人間によって徳に向って教育されなければならない。しかし、マキャベリ主義者であるカール・マルクスを引用すれば、社会の創設者は教育されねばならない。もともとの教育者、すなわち社会の創設者は徳に向って教育されているということはありえない。ローマの建国者は兄弟殺しであった。道徳性はただ、道徳性によっては創造されえない背景においてのみ可能なのである。というのも、道徳性は自分自身を作ることはできないから。道徳性がその中で可能になるような背景は不道徳性によって創造される。道徳性は不道徳性の上になりたち、正義は非正義の上になりたつ、ちょうどすべての正当性が究極的には革命的な創設の上になりたつように。人は本性的に徳へと方向づけられているわけではない。もしそうであれば、良心の痛みは人にとってもっとも大きな悪であろう。しかし実際には、私たちは落胆による痛みが、少なくとも、罪による痛みとおなじくらい激しいのを見る。別の言葉でいえば、だれも社会の善、共通の善を、徳に関する言葉で定義することはできないが、共通の善に関する言葉で徳を定義しなければならないのである。徳についてのこのような理解こそが実際にさまざまな社会の生命を決定するのである。共通の善によって、私たちは実際にすべての社会によって追求されているさまざまな目的を理解しなければならない。これらの目的とは、外部の支配からの自由、法の安定性と支配、繁栄、栄光、統治権である。言葉の効力ある意味での徳とは、必要とされ、この目的にとって都合のよい習慣の集積である。この目的が、そしてこの目的だけが、私たちの活動を徳あるものにしてくれるのである。この目的のために効果的になされたことすべてはよいことである。この目的はすべての手段を正当化する。徳は、市民的な徳、すなわち愛国心や集合的な利己心への献身以外のなにものでもない。

49

マキャベリはそれをこのままにしておくことはできない。祖国への献身はそれ自身教育に依存している。これは、愛国主義が自然なものでないということを意味する。人が本性的に徳へと方向付けられているのではないのとちょうど同じように、人は本性的に社会へと方向付けられているわけではないのである。本性的に、人は根っから利己的である。それでも、人が本性的に利己的であり、利己的以外のなにものでもない、したがって悪である一方、人は社会的な、公共の精神を持った、あるいはよいものになれるのである。この変容は強制を要求する。この強制の成功は、人が、これまで考えられてきたよりもはるかに驚くほど順応力ゆたかであるという事実にかかっている。というのも、もし人が本性によって徳や成熟へと秩序づけられていないとしたら、すなわち、もし人間に本性的な目的がないのだとしたら、人は自分が欲望するほとんどあらゆる目的へと自分を駆り立てることができる。すなわち、人はほぼ無制限になににでも適応できるのである。人の力は古代の人々が考えたよりもずっと強力であり、自然と偶然の力はそれに応じてずっと小さいのである。

50

人は悪であり、善へと強制されなければならない。しかしこの強制は悪の、利己的なものの、利己的情熱の仕事でなければならない。どの情熱が悪い人をして他の悪い人をよい人にし、よい人のままにしようと強制する、そういうことに熱心にせしめるのだろう? どの情熱が人々の教育者を教育するのだろう? この問いにおける情熱とは、栄誉への欲望である。栄誉への欲望のもっとも高い形は、言葉の完全な意味における新しい君主、まったく新しい君主、すなわち新種の社会秩序の発見者、幾世代もの人々の形成者になろうという欲望である。社会の建設者は、社会、すなわち彼の作品を保存することに利己的な関心を持つ。したがって、彼は彼の社会のメンバーが社会的であり続けること、したがって善であることに利己的な関心を持つ。栄誉への欲望は悪さから善さへの結節点である。それは悪さから善さへの変容を可能にする。もっとも高い種類のまったく新しい君主は、ただ利己的野心のみによって活力を与えられる。彼は引き受けるさまざまな大きい公共の課題は彼にとっては自分の設計図に色づけをする機会でしかない。彼は、大犯罪者たちが弁護可能な機会を欠いているという事実によってのみ彼らと区別されるのであり、道徳的な動機付けは同じなのである。

51

ここで次のことを示すのは不可能である。すなわち、いかにしてマキャベリがこの基礎の上に政治的な教えを、すなわち、軍事力に関するあらゆる政策に対しありうる限りの諸要求に完全に公平であり、そしてそれと同時に政治的自由と法による支配にとってもっとも都合がよいような政治的な教えを築くことに成功しているかを。私は自分自身を、次のことがどれほど簡単かを示すのに限定しなければならない。すなわち、西洋思想がマキャベリ主義化された数世紀あと、マキャベリの教えから完全に社会的地位が剥奪されたということを。マキャベリは、このように主張したというふうに描くことができる。きみは正義が欲しいか? きみがどうしたらそれを手に入れられるか、私がきみに教えてやろう。きみは説教をすること、激励のスピーチをすることによってそれを手に入れることはないだろう。きみは、ただ不正を徹底的に無益なものにすることによってのみ、それを手に入れるのだ。きみに必要なのは性格形成と道徳的訴えというよりむしろ、正しいある種の諸規則、すなわち強制力を内に持つ諸規則である。性格形成から諸規則に対する信頼への移行は、人の持つほとんど無制限な順応力を信じたこと特有の必然的結果である。

ブログの主旨変更

2009/04/10 Fri お知らせ

いまだにこのブログを見ている方がいるとは、よもや思われませんが、メインのブログの移転の伴いこの写真ブログは事実上終了ということにしたいと思います。

今後、この跡地には、私の学習用のスペースという、第二の人生を歩んでもらおうと思います。おもに授業の予習のために書いた翻訳を、授業ごとにカテゴリ分けし、保管しておきます。

こうすることでいちいちUSBメモリに保存して学校に持っていきそこでUSBメモリをまたさしてなどなどという煩雑な手続きを省くことができるのです。

ちなみに、過去の日記は半分ほど消し、残しておきたいものはそのままにしてあります。それにしても、もう一年も放置していたのか、ここ。

京都御所の桜

2008/04/20 Sun 写真

もう二週間ほど前になるけど、京都御所で撮った桜。あとでデジカメ持ってとりに行こうと思ってたけどサボっちまった。

っていうか、このブログ自体20日間もサボっちまった!


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きれい。

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きれい。

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これは桃。

ハヤシと美容院と

2008/03/26 Wed 写真

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20日に自宅で行ったハヤシライス・パーリー。みんなむしゃむしゃ食ってた。


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きのう、昼食にパスタをゆでてたらコップが割れてガラス入りパスタの完成。はは‥‥‥。


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美容院行った。「モテるヘアスタイル」っていう本を出されてそっから選んだから、あしたから女の子が死ぬほど寄ってくると思う。思うだけだけど。

お昼

2008/03/17 Mon 写真

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なすミートソースのパスタとキウイ。ん? キュウイ? キウイ? どっち? どっちにしろ甘酸っぱくておいしい。

買物

2008/03/14 Fri 写真

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雨の中、買物へ。


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雨。


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合計3200円ほど。10食分はある!

本買った

2008/03/13 Thu 写真

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金が入ったので、英和辞典と本を買ってきました。小学館の『プログレッシブ』とカントの『実践理性批判』。

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